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メカニカルアロイング法により作成した酸化物分散強化フェライト系合金の高温特性とイオン照射損傷に関する基礎的研究
名古屋大学Nagoya University博士(工学)名古屋大学博士学位論文 学位の種類:博士(工学) (課程) 学位授与年月日:平成12年12月28日doctoral thesi
吉田健一『東京の昔』をめぐって : 「水」、「金沢」、そしてジャクソン・ポロック
吉田健一の長篇『東京の昔』(一九七三)は、日本が戦時体制に移行しつつあった一九三七年頃の体験を、執筆時から回想して書かれた。本作や長篇『金沢』(一九七三)など多くの吉田の作品では、「水」の主題が「池」と「河」との対比においてあらわれている。それは「近代」への「内向」と「近代」からの「転向」との「倒錯」を表象している。そして、そのエクリチュールの様態は、ジャクソン・ポロックの営為と重ねてとらえられる。textapplication/pdfdepartmental bulletin pape
Does Chinese Managers’ Guanxi Networking Matter to Their Managerial Success? : A Multiple-case Study from Japan
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石川淳「山桜」をめぐって : ネルヴァルから秋成へ、あるいはロマン主義の克服
石川淳の短篇「山桜」(一九三六)に死んだ女性の幻影があらわれるのは、「わたし」が「ネルヴァルのマント」を想起したことをきっかけ=入口としている。それはテオフィル・ゴーチェらの回想や、唯物史観に照応したアーサー・シモンズの文学史から石川が受け取った、ジェラール・ド・ネルヴァルの「文学的形象」に基づく。それは自殺、狂気、夢というロマン的なシニフィエをはらみ、象徴主義につらなる一九世紀の文学を表象し、フランス革命後の小市民共和主義者によるロマン主義文学運動を想起させるものであり、長篇「普賢」(一九三六)にも投影され、小林秀雄、坂口安吾なども共有していた。そして、物語の最後で幻影は消滅し、あとに立ちすくむ「わたし」が残される。その姿は、こうした「文学的形象」を克服し、二〇世紀の新しい文学にむかう決意のあらわれとみなされる。石川は、そのためのきっかけ=出口を、まずポール・ヴァレリーに、また近世文学史の見取図をふまえて上田秋成に認めていた。textapplication/pdfdepartmental bulletin pape
太宰治「魚服記」一面 : 完遂された心中の物語
太宰治「魚服記」は、鎌倉心中未遂事件をふまえて、現実には未遂に終わった心中を完遂させたファンタジーとして読むことができる。textapplication/pdfdepartmental bulletin pape
一九四七年の革命、アレゴリー、アイロニー : 石川淳、林達夫から大西巨人、吉本隆明へ
石川淳の一九四七年の小説「処女懐胎」と「かよひ小町」は、今日的な「護憲」ではなく、「革命」の認識論的布置において書かれた。その天皇制打倒の立場からする日本国憲法への批判と二・一ゼネストへの評価は、中野重治らと共通する。また、その「カトリック=コムミュニスム」のアレゴリーと事後的なアイロニーは、それらが戦前から持続されたこととあわせて、林達夫らと共通する。なお、それらは戦後の諸作とともに、戦前においては小説「普賢」にもあらわれていた。さらに、アイロニーの事後性については、本多秋五らとも共通する。そして、そのアレゴリーとアイロニーは、表象、代行作用への批判という観点から、大西巨人と吉本隆明によって批判された。textapplication/pdfdepartmental bulletin pape
偽書というフェイク : 芥川龍之介、谷崎潤一郎、そして石川淳
偽書は、事実(ファクト)もしくは現実(リアル)と虚構(フィクション)とのあいだに位置づけられる、もう一つの虚構(フェイク)であり、独特の事実=現実らしさ(リアリティ)を虚構(フィクション)に与える。芥川龍之介「奉教人の死」、谷崎潤一郎「春琴抄」、石川淳「喜寿童女」といった偽書の趣向に基づく近代以降の小説は、現実を拒絶して虚構に向かう指向とあわせて、近代以前の諸テクストによって自らを根拠づけようとする、いわばインターテクスチュアリティへの指向を有する。森鷗外の歴史小説や史伝はその先例とみなされ、たとえば「喜寿童女」は「渋江抽斎」にならった可能性がある。偽書をめぐる考察は、文学の想像力の本質にかかわる。textapplication/pdfdepartmental bulletin pape
